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16
石造りの王宮の廊下に、荒々しい足音が響く。いらいらと歩く俺の足音だ。
俺の形相がよっぽど恐ろしかったんだろうよ。俺を見つけて挨拶をしかけた鴉の女官は小さくなって、鷹の文官はぽかんとした表情でなにも言わずに前を通り過ぎる俺を見送った。
どこへ行くかなんざ、考えてもなかった。
ただ水を浴びたい。
その一心で広すぎる湯殿に向かうと、俺は掃除のためにいた鴉の女官にも構わず服を脱ぎ捨ててずかずかと中に入った。
大きな水がめの水は、毎朝、毎晩鷹の当番が汲んでいる清潔なものだ。手桶を中に突っ込むと、勢いよく頭から被る。
セリノスの泉から汲んだ水は、季節を問わず氷のように冷たい。まして冬の今はなおさらだ。
水がめの半分ほどまで被ったところで手桶をもぎ取られて、俺は白い息を吐きながらじろりとその相手を睨みつけた。
後ろからついてきていたのはウルキだ。
「風邪を引く。……風呂に入れ」
「この程度でぶっ倒れるほどやわじゃねえ」
すっかりダチの口調に戻ったウルキが睨むのにも構わず無視して脱衣所に戻ろうとすると、今度は腕を掴まれた。
「入れ」
そのまま、しばらく睨み合った俺たちの間で白い水蒸気が上がる。俺たちの息と、俺の身体から立ち上ったものだった。
くそ、こんなとこはお節介だな!
舌打ちして強引にウルキの腕を振りほどいたところで、黙ったままのウルキの視線が動いた。
その視線を追った先に、俺が脱ぎ捨てた服を泣きながら拾う若い鴉の女官の姿を見つける。
………そうか。俺とネサラがやりあったことを知ってるんだな。
酷く怯えた目で、それでもどこか縋るように俺を見ては涙を拭いて年上の女官に窘められる女官を見ていたら、俺の中で張り詰めていたものの一つがゆっくりと落ち着きを取り戻した。
「ティバーン……。昔とは違う。王の機嫌一つで泣く者がいる。それをわかってこのセリノスに…鳥翼の国を興そうと思ったのではなかったのか?」
「……………」
「鴉を受け入れることの意味を…理解していたのではなかったのか?」
濡れそぼった髪から落ちる雫の音に混じって、遠ざかる女官の嗚咽が聞こえた。
鷹の連中なら、そうだな。こんなことで泣いたりはしない。
まあ今回はまだこんな時期だ。だからより怯えさせちまったってのがあるかも知れねえが、ウルキの言う通りだな……。
裏切りは鴉の性。
そう言われてはいても、いざ知り合ってみるとその鴉たちが繊細で優しい連中だってことはわかった。
確かに計算高い面はある。だがそれは俺たちよりも理性的で頭の回転が速いからだ。
どんな場合でも正面から挑む訳じゃねえ。力だけじゃ敵わねえ時に、力以外の術で勝てるように。
それも強さだと思ったのは嘘じゃねえ。
そして、その強さこそ俺たちがこれから一番学んでいかなきゃならねえ部分だってことも。
「そうだ。……鴉を受け入れるって最初に決めたのは、俺だ」
あいつは…ネサラは、そんな鴉たちを一人で守り続けた。もう誰も頼れねえ状況で。
その責任を、民の命を、俺も半分担いでやりてえと思ったんだ。
王同士になったんだ。だから、踏み込み過ぎちゃいけねえ。
だが、もっと早く助けてやりたかった。
我慢するなんて俺らしくもねえ。あいつがどんなに嫌がろうと、図々しくよ、キルヴァスの事情に踏み込んじまえば良かった。
もちろん、事情を知った今だから言えることだ。実際にやっちまったら誓約に触れて大変だったからこそ、ネサラもあれだけ気をつけて俺と距離を取ったんだからな。
それでもその後悔があったから、そしてそれ以上に同じ鳥翼の仲間としてな。
「思い出したなら、風呂に入れ」
「わかった、わかった。おめえもずぶ濡れだろうが。いっしょに入ろうぜ」
しつこく厳しい表情のウルキに笑って言うと、本当に俺が落ち着いたのがわかったんだろう。ウルキは改めて自分の姿を見下ろして濡れた服の裾を絞り、脱衣所に向かった。
いつもだったらフェニキス流に蒸気風呂と水で済ませるとこだが、せっかくこうして湯をはってあるんだからな。たまには使うことにするさ。
熱めの湯につかると、じんじんと痺れが走る。自覚はなかったが、相当冷えたんだな。
せっかくラフィエルに手当てされた手のひらも台無しだ。巻いてある包帯に血が滲んで、風呂に入って血行が良くなったからだろうよ。血のしみがじわじわと広がってきた。
ここは元はロライゼ様のために作った湯殿だったんだが、結局ロライゼ様はほとんど鷺の館にいるから、今はほとんどネサラ専用になっちまってる。
あいつは風呂好きだからな。その割に時間に追われるようにとっとと出てきちまうが、それでも風呂に入ってる間だけはゆったり寛いでここからセリノスの緑を眺めていたそうだ。
……くそ。可愛くねえな。
腹が立ったなら腹が立ったと言やぁいいじゃねえか。
今回のことでどう決着をつけるか。これでこの後の鷹と鴉の力関係まで大きく変わるってのに、あいつは本当にそれをわかってんのか!? …って、わかってるからあんな態度に出るんだろうが、それじゃ俺の気が済まねえだろ!!
唸るように息をついて湯船の湯で顔を洗うと、俺は意識して全身の息を抜くように大きな息をついた。
もちろん、俺の気が済む、済まないの問題じゃねえのはよくわかってるが、ほとんど八つ当たりに近い感情をなかなか押さえ込めなくて、俺は湯殿から覗く外の緑を睨みつけた。
「………王、失礼を」
「いちいち断るな。俺が入れって言ったんだろうが」
そんな俺の横にウルキが静かに入ってきた。
なにをやってるんだかな。いい歳をした鷹の野郎が二人、裸で並んでだんまりだ。
まあ、こいつはヤナフみてぇに口数が多くねえ。昔っからこうだったけどよ。
俺とヤナフが無茶をやって、こいつは渋々ついてきて、結局一番冷静でよ、迷子にならずに済んだり……。
長い付き合いだ。俺の悪い部分、弱い部分、全部知っていて、それでもこうして横にいる。
俺が鷹王に挑戦する時だったな。こいつは言ってくれた。
この先なにがあろうと、俺を裏切ることはねえ。
王になっちまったら、俺の性格じゃあ間違った道を選ぶ時にも力ずくになるかも知れねえ。だから俺が間違った時には、自分とヤナフだけは「それは違う」と真正面から言うってな。
……その誓いを、こいつは果たしてくれたんだ。
そこまで考えて、やっと俺は本当に落ち着くことができた。
その俺の空気を読んだんだろう。ようやくウルキが口を開いた。
「鴉王に…無体を強いたのか?」
「……遂げてねえよ」
「それを負い目に感じている。だから…あの鷹に対してより腹を立てている」
手厳しいな。いや、だが…そうだな。その通りかも知れねえ。
なにも言わずにウルキの言葉に耳を傾けていると、小さな水音がしてウルキも顔を洗ったことがわかった。
「おまえが初めて鴉王に会った時は…私はその場にいなかった」
「ああ。俺とヤナフが当時の鷹王に連れられてセリノスに行った時だ。おめえはまだ同じ隊じゃなかったからな。俺とヤナフもまだガキだったが、それでもヤナフは戦士として名乗りを上げても良いって許可をもらった歳で、俺は見習いで……あいつは生まれてまだ間もない赤ん坊だった」
もちろん俺もそのすぐ後に戦士になれたが、それでも戦士とは名ばかりで使い走りにさえ数えられてなかったぐらいのころだった。
リュシオンとはもう面識があったが、あの時は初めて鷺王ロライゼ様に謁見させていただいて、王妃の部屋にも入れていただいたんだ。
名誉なことだぜ。普通、こんな下っ端がそんなところに立ち入るなんてあり得ねえ。
理由は俺たちが鷹王に目をかけていただいてたのと、リュシオンに懐かれてたってのが大きかった。
リュシオンが俺の腕を引いて言ったんだよな。
『ティバーン、ぼく、弟ができたんです!』
『あ? もう生まれたのか?』
消化に時間のかかる木の実が主食になる鷺の子は長く母親に乳を貰う。リュシオンもまだ乳離れしきっていなかったが、当時、王妃であるリリアーナ様が懐妊していたことは知ってた。それにしてもずいぶん早く生まれたんだなと心配していたら、リュシオンはにこにこと『ちがいます』と首を振った。
意味がわからなくてな。ヤナフと顔を見合わせて、腕を引かれて……ロライゼ様が笑って許してくれたんだ。
王妃も俺たちのことは気に入ってるから、私たちのもう一人の息子を見てやって欲しいと。
そしてリリアーナ様の部屋に、その「弟」がいた。
『まあ、ティバーンとヤナフ…でしたね? 久しぶりね。元気そうで良かったこと』
驚いたさ。俺たちの顔を見て微笑んだ白鷺の王妃、リリアーナ様が抱いてるのが、蒼い髪に黒い翼の雛だったんだから。
その雛が鴉の赤ん坊だということはすぐにわかった。それも、まだ生まれて間もないぐらいだ。
『ほら、ぼくの弟です!』
それが、ネサラだった。
リリアーナ様は戸惑う俺たちを手招いて、ネサラを見せてくれたんだ。
本当に小さかったんだぜ? 俺たち鳥翼族は生まれたばかりのころはまだ翼が出てねえ。翼を出したまま生まれたら産道を通る時に折れちまうからな。
個人差はあるが、大体一週間から一ヶ月で背中から出て来るんだ。この時に上手く出せなかったら傷になって膿んだりして、酷くなると翼を失ったり、最悪、命を落すこともあるんだが、ネサラはその翼がやっと出たばかりだった。
『二人とも、撫でてあげて?』
リリアーナ様にはそう言われたものの、壊しちまいそうでよ、俺もヤナフも緊張したっけな。濡れたような小さな翼はまだ本当に柔らかくて、蒼い髪の毛もふわふわで、湿っていて……小さな手が動いて俺の指を握った時には、ちょっとでも動いたら泣かれちまうんじゃねえかと思って、石みたいに固まったもんだ。
子ども好きで特に赤ん坊には目のねえヤナフはすぐに上手くあやしてたけどな。
それからは、ちょくちょく顔を合わせる機会があった。ネサラのお袋さんはあいつを生んですぐ命を落したそうで、そのままリリアーナ様が引き取ったような状態だったからな。
まあこれはネサラが乳飲み子だったからってのがあるが、どうして鴉の乳母じゃなくてリリアーナ様に頼んだかっつーと、ネサラが黒鷺の血を強く引いた蒼鴉だったかららしい。
蒼鴉の中には鴉より鷺に近いヤツも少なくないからな。その場合は鷺に任せるのが一番だと、おそらくあいつの親父さんが考えたんだろうよ。
「……おい、なにを笑ってやがんだよ?」
「いや、…思い出し笑いだ。おまえが鴉王の父親に泣かされたことがあったことをな」
ぼんやり懐かしいころのことを考えてたらウルキがいきなり噴き出しやがった。ったく、どうせならもっといいとこにしろよ。ろくなことを思い出さねえな。
まあ、確かにそんなこともあった。ウルキもいっしょにセリノスに行くようになってたっけか。
ちょうどリアーネが生まれたばかりのころだな。ネサラはやっと一人で座れるようになったくらいだった。翼はぱたぱた動くだけで、まだ浮かぶこともできなかった。
リュシオンのヤツが自分が飛べるようになったものだからネサラも飛ばせようとやっきになっていて、微笑ましかったんだよなあ。
『ネサラ! ほら、もっと翼をうごかすんだ!』
自分のまわりに浮かぶリュシオンに手が届かなくてよ、しまいにはネサラがべそをかくもんだから、それが可愛くて、可哀想でなあ。
つい遊んじまったんだよ。
『よし、じゃあ俺が飛ばせてやるぜ、ネサラ!』
まあ、わかりやすく言えばだな、俺がネサラを放り上げて遊んでやろうとしたんだが、笑わすつもりが怖がらせちまったんだよな。思いっきり泣かれて、しかも間が悪いところにネサラを溺愛する親父さんが来ちまってだな、鉄拳制裁を食らったんだよ。
『この鷹のクソガキがッ! なに俺のネサラを泣かせてやがる!?』
――ってな。
言っとくが、いくら当時の俺もまだガキだったからってそう簡単に泣いたりはしねえぞ? ネサラの親父さんが大人げなかったんだ!
頭は殴られ、尻は引っぱたかれ……本当に、俺が泣きを入れるまで容赦なかったからな。
あれ以来、ネサラの親父さんには不名誉な名前で呼ばれる羽目になったさ。
神経質で物静かな鴉の中では変わった人だった。当時の鴉王の名代でちょくちょくフェニキスにも来てたっけか。
あのころはガキだったから政治的な方面での親父さんのことは知らねえが、鷹の中では気に入られてる方だったんじゃねえかと思う。
もっとも、ぶっ倒れるまで飲みとおせるってのが一番の理由だったろうが。
ネサラとよく似た仕草で長い黒髪をかき上げて、身体は今のネサラよりもうちょっと逞しかったっけな。
やっぱり神経質そうな、指の長い手をしてた。
俺を見つけたらその手を軽く上げて、さも楽しそうに呼ばれたもんだ。
『よう、鼻たれ。元気そうじゃねえか』
……なんてな。
当時の鷹王ももちろん強かったが、あの人も強かったはずだ。飄々としてみせてはいたが、まとう風と気配でそれはわかった。だから、年齢的にも次の鴉王は親父さんだと思ってたぜ。
俺だけじゃねえ。ヤナフもウルキも同じ考えだった。
間違いなく鴉王の器だったのに、どうしてあんなに早く逝っちまったのか、その理由も俺たちは知らない。
恐らくはそれにも血の誓約が関わってるんだろうが……。
「ティバーン? …なにを考えている?」
「つまんねえことさ。あの親父さんが生きてりゃ、きっと俺を殴りにきただろうってな。そういやネサラのやつ、親父さんが死んだ時も…っつーか、あのころからか。泣かなくなったな」
「………確かに」
ネサラが涙を見せたことはウルキには内緒だ。だからじゃねえが、それを除けば本当にあいつの泣き顔は久しぶりだった。
ガキのころは、よく泣いてたんだぜ? いや、泣くだけじゃなくてよ。
よく泣いてよく笑う、そんな普通のガキだったんだ。
まあ人見知りだったから鷹の中じゃ俺たち以外の連中には寄り付きもしなかったけどよ、ロライゼ様やリリアーナ様だけじゃねえ。リーリアやラフィエルも可愛くて仕方がねえって様子で構っていたし、もちろんリュシオンやリアーネもネサラが大好きだった。
ちょっと育つと親父さんに似て頭が切れることはわかったが、親父さんみたいな突き抜けた切れ方じゃなくて、中身はたぶんお袋さんの血だろうな。穏やかな気性で、鷺の民の中だけで暮らしても俺たちみてえに息が詰まるような様子もなかった。
「それまでは…ティバーンを見つけたら飛んできて、じゃれついていた。白の王子と取り合いまでなさっていた」
「取り合いか。あー確かに。俺の腕は二本あるんだから取り合うなってよく宥めたっけなあ」
でも最後はリュシオンが譲るんだよな。自分はおにいちゃんだから我慢するって。
そんなリュシオンがまた可愛くて、やっぱり俺は両方抱えて飛んだもんだった。
あのころを覚えてるから、ネサラが「鴉王」になった時は驚いたんだ。早すぎることはもちろん、思いつめた表情のあいつがいきなり大人びたことも。
……泣かせてやりゃ良かったのかも知れねえ。
親父さんが死んじまって、一時あいつは人形みたいになっていたらしい。
あのころはフェニキスでもごたごたがあったんだよな。だから俺はなかなかセリノスに行けなくて、話を聞いてやっと会えた時にはもう、それまでの鴉王たちと同じ表情になっちまってた。
あの時どうにかして泣かせてやることができたらよ、事態は変わっていたかも知れねえ。
そんな風に考えちまうのは、結局あいつが抱えた血の誓約について俺が知るのが遅すぎたからなんだろうが。
そこまで考えて立ち上がった時だった。ぽつりとウルキが言ったんだ。
「もう鴉王は子どもじゃない……」
「あ?」
なんだよ、いきなり。これ以上入っていたらのぼせそうだ。脱衣所に行きかけた俺の後ろでウルキも立ち上がって続ける。
「泣いて…ティバーンの手をただ待つような…そんな子どもじゃない」
どういう意味だ?
こいつはときどき奥歯にものが挟まったような物言いをしやがる。
「ウルキ?」
「出よう。のぼせてしまう……」
だが、ウルキはそれ以上なにも言わなかった。
そういや、部屋に残してきたネサラのことが気になる。
まさかべそなんかかいてねえだろうが、確かにさっきのはちょっと…いや、かなり酷かったよな。
けどよ、ネサラまで鷹の男を赦しちまったら、あの娘があんまり哀れで……。
そこまで考えて、俺は最初にウルキに言われた一言に思い当たった。
……確かに俺は、あの鷹の男に自分を重ねちまってる部分がある。
あの男をネサラが裁いて、それで俺まで裁かれた気になろうってのは、卑怯にもほどがあるだろ。
「くそッ!」
「王。早く服を着ろ」
俺は、ネサラに当たったんだ。いい歳こいてなにやってんだ…! 今さらこっ恥ずかしくなってきたぜ。
毒ついて手近な洗面器を蹴飛ばしたら、またウルキに怒られた。
こうなっちゃ鳥翼王の肩書きなんざクソの役にも立たねえな。
泣いていた若い女官はもういねえ。代わりにいたのは、俺の母親ほどの女官だ。こっちはさすがだな。機嫌の悪い俺の顔を見ても怯えることもなく俺とウルキに着替えの服を差し出してきた。
ラグズの中ではベオクに近い風習の鴉だ。いつもネサラの湯上りに拭いたり、着せたりするんだろう。俺が一人でさっさと着始めたところで当然のように手を出されたが、俺はそれを断って適当に着て湯殿から出た。
俺はネサラと違ってそういう「ぼっちゃま」扱いは慣れてねえからな。落ち着かねえんだよ。
「王……」
「なんだ?」
とにかく、頭は冷えた。ネサラに謝らなきゃいけねえ。
そう思ってもう一度執務室へ戻ろうとする背中に、またウルキが声をかける。
「鴉王は鷺の館です」
「ニアルチのところか?」
「はい。…ラフィエル王子と少し話したあと…約束をしたからと」
「そうか。わかった」
それなら、恐らくリアーネもいるな。
俺がちょっと想像でネサラを裸に剥いただけで、意味はともかく危険を察知したんだろう。睨んできたリアーネだ。今度こそ殴られるかも知れねえが、ニアルチの爺さんのことは俺も気になってるから丁度いい。
「せいぜい怒られてくるさ。ウルキ、ありがとよ」
「………どうぞ気をつけて」
あまり心のこもってねえウルキの台詞に軽く片手を上げると、俺は一番近い客室のテラスから羽ばたいた。
それにしても、おもしれえよな。
昔は、ネサラがあんまり強情なもんだからよく言い争いをしたんだぜ?
さっきより激しい怒鳴り合いだってした。
結局、血の誓約が絡んでいたんだから、あいつが素直になれるはずはなかったんだが、それが終わってもあの通りなんだから、この二十年で強情になったのか、それとも元々あんな性格だったのかはわからねえが。
もちろん、従順になれってつもりはねえさ。ただ、もう少しでいい。俺に気持ちをぶつけて欲しい。
もっとわがままを言って欲しい。
あいつの本音を隠した取り澄ましたツラを見ていたら、どうしてもそんな気持ちになっちまうんだよな。
いきなり素直になられたら、それはそれで戸惑うかも知れねえが、一度ぐらい素直になったあいつに会ってみたいもんだぜ。
「まあ、鳥翼王様…!」
「鴉王はここに来たか?」
前触れもなく庭に下りた俺に驚いた鴉の女官が、干しかけていたシーツを放り出すようにして膝をつく。
「は、はい。ニアルチ様を見舞っておいでです」
「そうか」
それだけ聞きゃ充分だ。
とは言え、鷺王もおわす館だからな。テラスから回り込むような真似はせずに正面玄関から入ると、俺はニアルチの私室になっている西の端の部屋に向かった。
「――おや?」
さて、どんな顔をして入ったもんか。とりあえずいつも通り行くしかねえな。
そんなことを考えながら薄い絨毯が敷かれた廊下を歩いていると、ロライゼ様とばったり会った。
いや、ここは鷺の館なんだからいて当然っちゃー当然なんだけどよ、この時間はいつも森のために謡ってるからまさか顔を合わすとは思わなかったんだ。
「これは、ロライゼ様。勝手に入ってきてしまって申し訳ない」
「ティバーン…君はもう私の王でもあるのだよ。そう畏まる必要はないだろう」
ゆったり流れる柔らかな色合いの金色の髪と穏やかな緑の双眸の鷺王ロライゼ様は、見かけは俺やラフィエルの兄貴ぐらいだが、その実はもう五百にもなろうって年齢だ。
確かに俺は鳥翼王の座にあるが、ロライゼ様と比べりゃようやく尻の卵の殻が取れたばかりの俺が偉そうな口を叩けるはずがねえ。
もっとも、そんな小さなことを気にするような人じゃねえのはよく知ってるが、これも俺なりのけじめってやつだ。
「ネサラに会いに来たのだね。大丈夫。あの子は泣いていないし、怒っていないよ。もっとも、ラフィエルが来た時には泣くのを堪えるのが大変だったようだけれど」
「そ、そうですか」
「ただ、リアーネが怒っているねえ。ここにリュシオンがいたらもっと大変だったろうね。ははは」
「おっしゃる通りで」
相変わらず容赦がねえな。ロライゼ様には隠し事ができねえ。ネサラがここにいたらまた逃げちまったろうよ。
あっけらかんと笑うロライゼ様に苦笑して、俺はまだ湿ったままの頭を掻いた。
「ティバーン。君が右と言った時に右。左と言えば左。それ以上のことをなにも答えないような者は、つまらないよ」
「……はい」
だが、やっぱり年長の王だ。
俺の親父らしい鷹は荒っぽい人だったからまったく違うはずだが、それでも「父親」を思わせる穏やかな眼差しでそう諭されて、俺は背筋が伸びる思いで頷いた。
「けんかをしたなら、仲直りをすれば良い。仲直りが難しくても、お互いの気持ちを理解し合えば良い。そのことを忘れなければそれで繋がりは強くなるものだ。ゆっくりして行きなさい」
ぽんと肩を叩いて行かれて、俺はゆったりと歩いていく背中に深く頭を下げた。
そうだな。仲直りをすれば良い、か……。
時にはそれが難しいこともあるだろう。どうしても決着をつけなきゃならねえこともある。
でも今は違うよな。
大きく息を吸って胸を張ると、俺はニアルチが養生している奥の部屋の扉を叩いた。
「よう、邪魔するぜ」
リアーネとニアルチの返事とほぼ同時に扉を開けると、思った通りだ。ニアルチの寝台の横に、ネサラが座っていた。
「これは鳥翼王様…このような老いぼれの部屋にわざわざお越しいただくとは」
「ああ、気にすんな。起きなくていいからそのまま寝てな」
俺の顔を見て慌てて起き上がろうとするところを止めると、じいさんはもう一度深く頭を下げて横たわり、ネサラはちら、と俺を見ただけですぐに視線を逸らした。
リアーネはと言うとだな……。
「ティバーンさま、めッ!」
「だから、悪かったって」
俺がネサラの方に行きかけたところで立ちはだかり、ぱたぱた羽ばたいて俺と視線の高さを合わせながらこの通りだ。
……質素な部屋だな。寝台と、小さなテーブルセット、絨毯も薄いし、カーテンもだ。今は一国の王ではないとはいえ、それでも鴉王の筆頭侍従なんだ。もう少し居心地の良い部屋にしてもいいだろうに、じいさんは「暖炉があるだけでも充分贅沢ですじゃ」と言ってなにも望まなかった。
「思ったより元気そうだし、俺はもう行く」
「ぼっちゃま! 鳥翼王様に失礼があってはなりませんぞ!」
「……失礼なんかしてないだろ。こいつが勝手に怒って押しかけてきただけで」
「ティバーンさま、もうおこってない。ね?」
「おう、怒ってねえぞ」
俺の顔も見ないまま立ち上がったネサラをニアルチが引き止めて、リアーネの念押しに俺は大きく頷いた。
これは嘘じゃねえよ。もちろん納得してねえってのは本当だが、ネサラが感情のまま答えられなかったってのはもうわかってる。
いや、最初からわかってたんだからな。
「ネサラ、さっきは乱暴な真似をしちまって悪かったな。怪我はしてねえか?」
「なんと! ぼっちゃま、まさか鳥翼王様に手を上げられたのですか!? 一体何をなさったのです!」
「なにもしてないし、怪我もしてない。あんたもいちいち大げさだな。あれぐらい、鷹にとっちゃいつものことだろ」
「鷹の振る舞いをいつものこととおっしゃいますな! 悪気はなくとも、鷹の振る舞いが鴉にとって暴力以外、何ものでもないことは多々あるのですぞ!!」
………耳がいてえな。
ネサラに言い聞かせてる風だが、実際には俺に念を押してるんだろうさ。
ああ、そうだ。俺たち鷹にとっての乱暴と、鴉にとっての乱暴の度合いは違う。
それを改めて肝に銘じながら、俺はまだ視線を合わさねえネサラが立って俺に譲った椅子に座り、じいさんに向き直った。
「じいさんにも余計な心配をさせちまったな。実は、娘に乱暴した鷹の戦士の処遇について揉めたんだ」
「それは……そうですか。なにぶん、難しい問題ですからなあ」
「ああ。ほかにも怪我をした連中がいると聞いたが、どうなんだ?」
「確か骨を折った鷹の方が一人おられたかと存じます。鴉の方はたいしたことはございません」
………隠しているな。
表情はもちろん、口調も変わらなかったが、それぐらいのことはわかる。
さりげなく離れて窓へ行きかけたネサラの腰を片腕で抱いて引き止めると、俺はニアルチに言った。
「ヤナフからも報告を受けている。ここで隠したら遺恨にしかならねえぞ」
俺の厳しい声に、ニアルチは黙り込む。ネサラもだ。
リアーネが困ったように俺たちの顔を見て寄ってきて、ようやく諦めたらしいな。ネサラがぐいと俺の腕を外しにかかった。
「離せよ。ちゃんと言う」
「逃げるなよ?」
「………あんたも大概しつこいな」
「おめえに関しちゃな」
うんざりとため息をついたネサラの腰を離すと、なぜかネサラ本人より安心した様子のニアルチが「ぼっちゃま、こちらへ」と寝台の片側を空けて座らせた。
視線が近くなったからな。これで少しは話しやすくなったんじゃねえか?
「翼を折ったのが一人と、もみ合いになった時に肘だかなんだかが当たって顔を怪我した男が一人、どさくさに紛れて乱暴されそうになった女が一人…ってところだ」
「あの男か?」
「それは違います」
驚いて訊くと、淡々と言ったネサラの後ろからニアルチが付け足した。
違うだと? どういうことだ?
俺が口を開く前にネサラがちら、と視線でリアーネを見る。
そうか。鷺の身には辛い話になるな。
ここは鷺の館だ。リアーネを追い出すことはできねえ。だから俺とネサラが場所を変えるかと思ったが、それを提案する前にリアーネが言った。
「わたし、しってる。だいじょうぶ。ネサラ、ね?」
「あぁ、……わかってる」
気負いのねえ笑顔だ。本当に強い娘だな。
それなら、遠慮する方が失礼だろうよ。
小さく頷いたネサラが俯いて膝の上で指を組む。神経質そうな長い指を見て、俺は言葉を選んでるらしいネサラを急かさねえよう、いつもの仕草で腕を組んだ。
「リゾー…だったな。今回の首謀者は」
「おう。他にもおまえに詰め寄った連中はいたそうだがな」
「あの娘に乱暴したのは、そそのかされた鷹の男だ。それは間違いない。ただ、そのリゾーに近しい連中も二人、噛んでいたらしい」
「どういうことだ?」
低い声で続きを促すと、ネサラは落ちかかる前髪を見慣れた仕草でかきあげて、淡々と言った。
「そんなことをすれば、騒ぎになる。騒ぎになって……鷹と、鴉が揉める。それが狙いだったんだろう。止めに入った鴉の女官にまで乱暴しようとしたのは、その二人の方だ。あの娘に乱暴を働いた鷹の方は、最初に怒った鷹の戦士ともみ合っていたらしい。もっとも、乱暴してる最中に止めに入った鴉の戦士を力ずくで振り払って怪我をさせたのはこの鷹の男だが」
「リゾーの腰巾着の二人は、あの男と他の鷹を煽り立てたあげく、自爆したってところか」
「そうなる」
「それで、もう一人の女は無事だったのか?」
「怪我をした鷹が守ってくれたらしい」
それだけは救いだな。しかし、クソどもが…!!
目論見としちゃ、他の鷹を扇動して鴉と戦り合おうってところか。それも、女には乱暴して、男は殺してか?
ところが、その魂胆は外れた。当然だ。
まともな鷹なら、そんな外道な真似は絶対にしねえし、できねえ。
たとえ殺し合い…にはならねえか。鴉はまだ気持ちとしても抵抗できなさそうだからな。
それでも、戦士以外に向ける拳はねえよ。当たり前のことだ。
「その二人は?」
「ヤナフが探してる」
「なんだ、そりゃ。鷹の風上にも置けねえな。逃げやがったのかよ。今度戻った時には、言い逃れはさせねえぞ」
「…………」
飲み込んだはずの怒りがまたふつふつと湧いてきた。ネサラとニアルチはなにも言わず黙り込んでいたし、リアーネは俺の怒りの気配がよっぽど痛いんだろう。顔色を白くしながらも毅然とネサラに寄り添ってる。
そんなリアーネの姿を見ても、俺の怒りは収まらなかった。
当たり前だろう? そんな輩を赦して、なにが王だ!
「ティバーン?」
「怪我をした鴉を見舞う。ネサラ、案内しろ」
「鳥翼王様、それは…!」
音を立てて立ち上がると、俺はネサラの返事も待たずに踵を返した。ニアルチは止めるが、聞けるかよ。これは当然のことだ。
「ティバーン、俺は承諾してない」
「承諾なんざ必要ねえ。俺は命令してんだ」
不服そうなネサラに扉を開けながら言うと、リアーネが俺になにか言いかけたが、それよりもネサラの方が早く諦める。
いくら王だからってこんな風に高圧的に出るのは俺だって本意じゃねえよ。だが、こうでも言わなけりゃネサラは意地でも動かねえ。仕方がねえだろ。
「リアーネ、大丈夫だ」
「ネサラ、でも…!」
「ティバーンはもう俺の王なんだ。しょうがないだろ?」
ああ、くそッ! こんなこと、言わせてえわけじゃねえのによ。歯痒いもんだぜ…!
堪え切れずに視線だけで後ろを見ると、俺に続いて出てきたネサラの肩越しに小さく翼を震わせたリアーネが涙ぐんでニアルチに慰められるのが見えた。
なんだかなあ、泣きたいのはこっちの方だ。俺がこいつらをいじめてるみてえじゃねえかよ。
「それで、どこだって?」
「……本当に行くのか?」
「おう、行くとも。なんだよ。罵倒されようが石を投げられようが、ンなもんとっくに覚悟できてるぜ」
「そんなことするわけないだろ。……わかった。案内する」
呆れたように肩を竦めたネサラが玄関から出て羽ばたく。その背を追いながら俺は考えた。
それにしても、リゾーはともかく腰巾着の二人はまだ見つかってねえようだが、一体どこに隠れてやがるんだ? あいつらもそれなりの腕っ節だってのは知ってる。
しかし、ヤナフが探してまだ見つかってねえってのは気になるな。まさかとは思うが、セリノスから出たのか?
雨風さえしのげる場所があるなら、この季節とはいえ水や食い物は調達できるだろう。だから考えられねえ話じゃねえんだが……どうも腑に落ちねえな。
ネサラが先導して降りたのは、鷹と鴉の住居が混在する一角だった。わざとこんな作りにしたんだが、端の方はどうしてもそれぞれの種族が固まりがちになる。当然と言や当然だが、こっちは鴉の家が集まってる方だ。
てっきり俺を見つけて罵倒の一つも飛んでくるかと思ったが、そこにいた鴉の老人、女たちは、無言で膝をついて俺とネサラに服従の意を表した。まだ字を習いに行かねえ雛までもだ。相変わらずこの辺りは徹底してやがるぜ。
「こっちだ」
ただ、頑なに顔を上げないことがこいつらの無言の抵抗なのかも知れねえな。ネサラも挨拶として片手を挙げて応えただけでなにも言わず、集落の中では大きい部類に入る家に俺を案内した。
「ここは?」
「療養所だ。戦士になれなかった鴉の民は、それぞれなにか一つ手に職をつけることになっている。ここにいるのは薬草の知識や怪我の治療に長けた連中と、患者だな」
「なるほど。そりゃいいな」
「民が全て戦士を兼ねてるような鷹には必要なさそうだけどな」
厭味のようなことを言ってるが、ネサラの口調に滲むのは自嘲だ。
力だけがラグズの強さじゃねえ。……そのことを誰より示して見せた鴉の王が、つまんねえこと言うんじゃねえよ。
「おい、頭を撫でるな」
「撫でやすいとこにあったんだよ」
こいつが赤ん坊のころのことまで思い出しちまったからつい頭を撫でたんだが、ネサラはむっとして俺の手を叩き落して足音も荒く絨毯も敷いてない廊下を奥に進んだ。
俺とネサラの二人連れを見て、看護を専門にしてるらしいな。木綿の白い服を着た鴉の若い男が布を被せた桶を小脇にして頭を下げる。こいつはずいぶん痩せてるし、確かに戦士としちゃものの役には立たねえだろう。
その後ろにいた男は体格はいいが、動きがぎこちねえ。片足を失くしたんだな。忙しなく翼でバランスを取る男が抱えているのは、血止めと熱さましに使うもの以外は俺じゃ名前もわからねえ薬草らしき草が山盛りになった籠だった。
見たところいっぱしの戦士だったろうに、戦えなくなってこの道を究めようとしてるってところか。
……鷹の戦士は戦えなくなったらそれを恥と考える。
だから酒びたりになったり、わざと死ぬような戦に出たがるが、こうしてみると戦えなくなることよりも、それで絶望してやけっぱちになる方が何倍もみっともねえよな。
もちろん、俺としちゃ同胞の鷹の気持ちの方がよくわかるんだけどよ。戦えなくなった仲間を支えるのは当たり前だ。だから励まして支えようとしたもんだが、俺は…いや、俺たちは支えられる側の気持ちに向き合ったことはなかった。改めてそれを思い知った。
扉に名前らしい木の札が二つついた扉を開けると、そこは寝台が四つ並んだ部屋だった。
寝台の上に天蓋に似たものがつけられていて、布を下ろすと寝台が丸ごと隠れる仕組みだ。小さな個室になるって感じか。無駄がねえっつーか、この辺りがいかにも合理主義のネサラらしい。
「これはネサラさ…ちょ、鳥翼王様!?」
「え!?」
「起きるな。傷に障る」
当たり前っちゃー当たり前だが、この部屋にいるのは二人とも男だった。
ネサラを見て喜色満面だった顔が後ろから入ってきた俺を見て固まる。慌しく寝台を降りて平伏しかけた二人を止めると、俺はニアルチの部屋と同じだな。なんの愛想もない質素な部屋を見回して二人に近づいた。
「鳥翼王がどうしてもおまえたちを見舞うと聞かなかったんでな。案内してきた。嫌なら嫌だと言ってもいいぞ。俺が追い出す」
その言い草は、俺を見て動揺した二人に対するネサラなりの気遣いなんだろうさ。笑って扉を閉めたネサラに肩を竦めると、俺は二人の顔を交互に見た。
翼が折れたのは、左の方か……。こっちの方が重傷だな。ツラだけ見りゃ、まだ青黒い内出血が残った右の男も酷い怪我だが。
「翼の具合はどうだ?」
「あ…はい、その……大丈夫です」
「大丈夫じゃねえだろう? 折れてんだから」
「骨の位置は直したんで、たぶん飛べるようになるだろうって話です」
頭を下げたままの男の代わりに、右の男がその横に膝をついて説明してくれた。
「たぶん、か。今回のことは詫びようがねえ。本当にすまなかった」
「と、とんでもないです!」
「頭をお上げください!」
――飛べなくなったら。
それがたとえ話でも、考えたくねえ。
戦えなくなったらどころじゃねえよ。俺だったらきっとおかしくなって死んじまう。
情けないとかなんとか、そんな次元の話じゃねえ。俺にとっちゃそれぐらいの話だ。
だから正直に頭を下げたんだが、二人は顔を見合わせて慌ててまくし立てた。
「ネサラ様がいつもおっしゃっています。鳥翼王様が赦されない罪を犯した鴉のことを助けるために苦労してくれたこと。俺たちはそれを裏切っちゃいけないって」
「我々にとっては今でも王である方はネサラ様だけです。ですが、ネサラ様はあなたに膝をつかれた。なによりもネサラ様を助けてくれましたから、我ら鴉は皆、あなたに従います」
従います、か。含みのある言葉だな。
だが、本音なんだろう。
俺は二人の言葉に頷き、それぞれを寝台に戻して、戸口に立って言った。
「今回の鷹の処分については、ネサラともよく話し合う。双方にとって等しく納得の行く結果にはならんかも知れん。だが、どうするのが一番良い結果に繋がるかをネサラと話し合って決める」
ここで絶対に赦さねえと言うのは簡単だ。
だが、その言葉だけじゃ鴉は…ネサラは納得しねえだろう。
罪には罰を。そんな単純な話じゃねえんだな。
今さらそれがわかったから、俺は慎重に言葉を選んで言った。
とりあえず、俺が長居したら二人が休まらねえだろう。そう思って出て行こうとしたんだが、その前に今度は窓の外からにぎやかな声が聞こえてきた。
「なんの騒ぎだ?」
「あー…ええと、」
「お見舞い…です」
見舞い?
寝台の二人ががなにやら情けねえ表情になって口ごもるが、ネサラもわからないんだな。視線を向けると、ネサラも首をかしげて大きな窓の方へ寄っていく。
「おじゃまするぜーっと、あれ!?」
「きゃあ、無茶はやめてください!」
大きな窓を蹴破るように入ってきたのは、妙齢の鴉の女官と布を被せた籠をそれぞれ腕に抱えた鷹の男だった。
際どいところだったが、戦士らしく飛行技術は高かったんだな。寸でのところでネサラをかわして降りて、ネサラと俺を見比べて慌てて女官と籠を下ろしながら膝をつく。
「こ、これはわが王と鴉王まで! どうもこんにち…あたたッ」
「だ、大丈夫ですか? ネサラさま、鳥翼王さま、このような形で申し訳ございません」
深く頭を下げようとしたところで鷹の男がきつくなめし皮を巻いたわき腹を抑えて呻き、女官が男の背中を撫でるようにして横に並んで膝をついた。
俺でさえ出入り口から入ってきたってのに、しょうがねえやつだな。一瞬言葉を探した俺の代わりに、眉をひそめたネサラが言う。
「鷹の民にとっての玄関は、窓なのか?」
「め、めっそうもねえ! 今日はいい肉をもらったんで、酒といっしょにこいつらにおすそ分けしようと…すんません!」
「ネサラ様、その男は鴉の娘を助けようとして怪我をした戦士です。俺たちのことも気にしてくれて…自分も脇の骨を折ってるのに」
「ネサラさま……わたしも、助けてもらいました」
翼を折った男と女官の訴えかけるような視線に、ネサラの表情が幾分和らいだ。
怪我をした鷹の戦士と、乱暴されかけた女官ってのはこの二人か!
しかし、その二人がなんでこうも仲良くやって来たんだ?
怪訝に思って色っぽい女官を見ると、細い手が男の翼に寄り添ったままだ。
………ああ、なるほどな。そういうことかよ。
「俺も、おまえを見舞おうと思っていた。わが民を助けようとして怪我を負ったそうだが、もう大丈夫なのか?」
「は、はい! 骨の一本や二本、鷹にとっちゃ屁でもねえです!」
「三本折れたんです。ネサラさま」
「や、でも飛べるんでべつに! ですよね!? 王!」
「そりゃそうだ。内臓に刺さってねえんだから生きてんだろ。そのぐらいだったら酒かっくらって寝りゃ、すぐ治るさ」
ったく、やせ我慢しやがって。
だが、惚れた女のためのやせ我慢なら、見て見ぬふりをしてやるのが当たり前だ。
殊更なんでもねえ風に答えると、その辺りの微妙な空気を読めたのか、それとも単に呆れただけか、ネサラは肩を竦めて「そうか」とだけ頷いた。
「あばらの骨は折れやすい分治りも早いと聞くが、それも無理をしなければということだろう。大事にしてくれ」
「はい! 鴉王、今さら俺が言ってもせん無いことになっちまうだろうが……今回のわが同胞の犯したこと、本当にすまなかった」
「…………」
「実は、あいつは俺の幼馴染なんだ。普段ならこんなことするヤツじゃねえのに、あの時は酒が入っていて、良くねえ酒で……」
「やめろ」
言いながら深く頭を下げた男にネサラが困ったように無言になり、俺はなおも言い募ろうとした男を止めた。
そんなことを言われていざ裁く方に心が動いた時に、ここにいる誰か一人でも嫌な思いをするのは良くねえ。
「あ…はい。すんませんでした」
「行くぜ、ネサラ」
だから俺はネサラの腕を掴むとそのまま窓辺に行き、ぽかんと見送る連中に「また来る」と言い残して飛んだんだ。
ネサラは文句も言わずついて来る。
ただ、また妙な心配をされたくねえからな。あちこちから俺たちを見る視線に笑って応えると、俺はセリノスの外れにある見張り小屋のてっぺんに下りた。セリノスでも高い木の一番上に風よけの壁と屋根だけの小さな小屋を作ったんだ。
「ふわぁ…って、王!? 鴉王まで!」
「よう、せっかくだからここをネサラに見せてやりたくてな。ちょっといいか?」
「は、はい。どうぞ!」
見張りなんざ基本的に退屈な仕事だ。大欠伸をしていた若い鷹の戦士は狭い床に膝をついて俺たちに挨拶をしたあと、ばたばたと飛び出していった。
察しが良くて助かるぜ。ここなら目隠しもある。ウルキにはともかく、内緒話もできるからな。
「………腕が痛い」
「あ? おっと、悪りぃ」
そう思ってネサラに向き直ろうとしたところでぼそりと言われて慌てて手を離すと、ネサラは本当に痛かったようでしばらく俺に掴まれていた方の腕を確かめていた。
それから少し考えて座る。風除けにすっぽり隠れる位置だ。
俺もその横に座った。
とりあえず勢いに任せてここまで来ちまったものの、なにを話せばいいのやら思いつかねえ。
ただ二人してしばらく莫迦みてえに黙り込んで、高い空の風と民の声を聞いていた。
動いたのは同時だった。
「すまん」
「悪かった」
俺は向き直って、ネサラはぽつりと、それぞれ謝罪の言葉を口にする。
ちょっと待て。なんで俺が謝られるんだ?
「あんたの気持ちは、わかってるんだ。有難い…と思う。こんな時期だからこそ、鷹と鴉を対等に扱おうとしてくれてるのもわかってる」
「ネサラ」
「あんたは俺に生きて償えと言った。今は俺も……その方が役に立てることがあるんじゃないかって思う。でも、全員がそう思うわけじゃないことだって…わかるから」
謝るな。そう言うのは簡単だったが、俺は黙ってネサラの小さな声に耳を傾けた。
本音を言わねえネサラがつっかえながら、考えながら、だが心からの気持ちを口に出してるんだ。
鴉王としての生活で嘘をつくことばかり、本心を隠すことばかり上手くなっちまって、むしろその姿の方が本物になりそうだったネサラが、俺に対して誠実に向き直ろうとすることがどんなに大変かわかるからこそ、俺はただ黙って聞いていた。
「鴉の民は、血の誓約を知らなかった連中の方が多い。いや、知っていたのは俺にごく近い者だけだ。教えたらきっと良くないことを考えただろうから、その方がいいと歴代の王も……俺も、考えた」
そこまで言ったネサラが立てた膝に額を預けて短く息をつく。
そうだ。だからこいつは、一人でなにもかも抱え込まなきゃならなかった。
こいつの処遇が決まるまで軟禁せざるを得なくなった時、ニアルチのじいさんが這いつくばって俺の足に縋って言ったんだ。
『ぼっちゃまは、たった一人で鴉王としての責任を果たそうとなさった。ですが我々は誰一人ぼっちゃまの流した血に見合うだけのことができず、今もこうして一人で責任を負わせようとしております。この期に及んでぼっちゃまの命を救って欲しいとは申しませぬ! ただどうか、どうか我らも共に死なせてくださいませ…!』
せめて、ネサラの死の眠りが孤独にならねえように。
騙されていた。そう怒る鴉の民が出なかった。
それだけでもどれだけこいつが民のことを第一に考えていたのかわかるってもんだ。
「俺が隠したのに、隠して汚い仕事もさせたのに……それでもあいつらは負い目に感じてる。だから鷹に償えと言われたら、みんななにも言えない。仕方がないことかも知れないが……」
最後は消えそうになった声に俺はネサラの肩を抱き寄せていた。
一人で悩むな。俺に寄越せ。
言葉だけじゃねえよ。その一言が伝わらねえのがもどかしい。
そんな俺がおかしかったのか、急にネサラが笑い出した。
「な、なんだよ?」
「あんたは……」
「あ?」
「鴉の味方をしすぎる」
なんだ、そりゃ?
やっと口を開いたかと思やあ、それかよ。意味がわからなくてネサラの横顔を見ると、ネサラはまたいつものように前髪をかき上げて続けた。
「あれじゃ鷹の連中が面白くないだろ。気を遣いすぎだ」
なにを言い出すかと思えば……。ったく、気を遣いすぎなのはどっちなんだかな。
「言っておくが、今回の犯人が鴉でも俺は同じようにしたぜ」
「…………」
「その目は信じてねえな?」
覗き込んだ濃い藍色の目は思いっきり疑ってやがる。
嘘じゃねえよ。どう言えばこいつが信じるのかわからねえが、それだけは言える。
「寒くねえか?」
「化身の力が戻ったんだ。デインならまだしも、セリノスでそれはない」
先に沈黙に耐えられなくなったのはやっぱり俺の方だ。
整った顔を見つめたまま囁くように訊くと、ネサラはにこりともしねえで答えた。
残念だな。
正直にそう思って、俺はそんな自分に笑っちまう。
今は発情期の熱も落ち着いてるのに、なにを考えてんだ。俺は……。
そこで「寒い」と言われたら、抱きしめるつもりだった。
そうか。俺はもう、こいつに触るのに言い訳が必要なんだ。
そのままネサラはまたしばらく黙った。黙って、居心地悪そうに膝を抱える。
そうしてるとまるで迷子のガキみてえだな。
ようやく口を開いたかと思ったら、隙間風だらけの床に落ちた緑の葉を拾って一言だ。
「書類がほとんど書けてない」
「あ? いいんじゃねえのか? 俺もだぜ」
もちろん、どうしても必要なもんは昨夜のうちに片付けてるけどな。平然と答えると、ネサラはむっとしたように俺に視線を向けてなにか言いかけてまた黙った。
だが、今度は唇が尖ったままだ。
「なんだよ。なにか言いたいことがあるんだろ?」
「べつに」
「べつにって顔かよ」
わざと至近距離で顔を覗き込むと、ふいと顔ごと視線を逸らす。尖った唇を摘んでやりてえ衝動に駆られたが、そこは堪えて俺は辛抱強くネサラが口を開くのを待った。
「……いいのか?」
「なにが?」
「こんなとこにいて。今日中に出発するつもりなんだろ?」
「おう、そりゃ……って、なんの話だよ?」
時々、こいつの言うことはわかんねえ。
表情はいつもと同じ癖に、握った葉っぱをいじるのは言いたいことを言えてねえって証拠だろう。
しかし俺の方にも心当たりがねえからなあ。正直に言うと、ネサラはちらりと俺を見て、今度は睫毛を伏せて視線を隠して言いやがった。
「あんたの帰りを待ってるひとがいるんだろ。気持ちが落ち着いたなら、行ってやったらどうだ?」
「待ってる人?」
「……子ども、いるんだろ」
照れたようにちょっと赤くなって言う仕草でわかった。なんだよ、そういうことか。
あー確かになあ。こいつは親父さん大好きだったもんな。こいつのとっての「親父」ってのは、あんな風に暑苦しいぐらいの愛情表現をする相手なんだろうよ。
会えた時にはべったりで片時もネサラを離そうとしなかった親父さんを思い出しながら、俺はネサラの肩を抱いた腕に力を込めて言った。
「気にすんな。俺一人が相手の男じゃねえ。心当たりのある男がみんなで自分が親父のつもりで可愛がるってのはあるが、鷹の父親ってのは鴉ほどべったりじゃねえんだよ」
「本当に結婚とかはしないのか?」
「する場合もある。その女が子持ちの場合は自分の種かどうかに関わらず、自分の子だと思って育てるしな」
基本、ラグズはみんなで子を育てるもんだ。同族の子は自分の子と同じ。生まれたガキが誰の種でできた子かわかるのはそれなりの大きさになってからだしな。
そうなるとやっぱり自分の子だって気持ちになるようだが、さすがに俺はまだそんなでかいガキはいねえな。
ただまあ、時期的に俺の子だろうってのがいるぐらいだ。
そう思って言ったんだが、ネサラは一瞬怒ったようになにか言いかけて、結局ため息をついて「もういい」と立ち上がろうとした。
まあまあ、待てって。
「なんだよ、まだなんかあるのか?」
「もちろん鴉だって一生一人と添い遂げるやつばかりじゃない。でも、あんたたちのその感覚は信じられん」
「そうか?」
「もし鴉の女が…女とは限らないが、鷹とそんな仲になって、そんなことを言われたら傷つく。あんたたちにとっては遊びでも、俺は納得できないね」
言われて俺は頭を掻いた。参ったな。そんなつもりじゃないんだが……。
「ネサラ、早合点するなよ。確かに遊びで付き合って子ができる場合もある。だけどそれはお互いに『遊びだ』ってわかってるんだぜ? 一方的に遊びで関係を持つことはまずねえし、遊びかどうかに関わらず子ができたら同じように可愛がるさ。なにより、鷹にだって一途な恋をするやつはいるし、相手が本気なら絶対にいい加減な気持ちで手を出したりはしねえ」
「信じられない。あんたはどうなんだ?」
まだ根に持ってるのかよ! …って、当たり前か。こいつはその鴉の親玉だった。
いらいらした様子のネサラに俺は真面目に考えて答えた。ここでいい加減な返事はできねえ。そんなことをしたらこいつは一生、俺に気を許すことがなくなるだろうからだ。
「ネサラ、これだけは言っておく。最初は確かに悪ふざけだった」
「………」
「いいか? 最後まで聞けよ。でも、今はふざけてなんかいねえ。おまえを抱きたいと思ったのは、冗談なんかじゃないってことだ」
そこまで言い切ると、ネサラの白い頬にさっと血の気が上って薄い手が慌てて俺の口を塞ぎにかかった。ウルキの耳を気にしてんだな。
「ば…! そ、そんなことをよくもこんなとこで」
「聞かれたって構わねえよ。今でも、おまえさえその気になるなら俺は身体ごとおまえのことを知りてえ。おまえの匂いだけじゃねえ。なにもかもな」
指先まで熱い。ネサラの手のひらに口づけると、俺は両腕を掴んで引き寄せて膝に抱えたネサラの身体を抱きしめた。
強引だったからな。ぶつかるような勢いでネサラが俺の胸元に倒れこんで、文句を言おうと上を向いた瞬間、ネサラの唇を奪う。
こうやって心まで奪えればいいのにな。本気でそう思った。
「!」
しなやかな身体が強張る。唇は冷てえな。舌と身体は…そんなに冷えてねえか。
ばさばさと派手に抵抗しようとした翼も、腕の力もだんだん弱くなって、最後はためらうように俺の胸元で縮こまった。
遠慮しねぇで俺の背中に回しゃいいのによ。意地っ張りめ。
俺からすれば挨拶にちょっと色をつけた程度だが、ネサラにとっては濃厚な口づけだっただろう。
濡れた唇を指で拭ってやりながらそっと離れると、黒い翼も、長い睫毛も震えていた。
「ネサラ?」
薄いまぶたに口づけて囁くように呼ぶ。
抱きしめた身体にはもう抵抗らしい抵抗はなかったが、それを承諾だと思ったらいけねえってのはもうわかってるからな。
俺は乱れた前髪をかき上げて汗ばんだ額にも口づけ、なにも言わないネサラを深く抱きしめた。
うるさいぐらい慌てた心臓の音が伝わってくる。やっぱりあれか。どうしたらいいかわからねえってところか?
小さなため息が聞こえて、やっとネサラが身じろいだ。だけどまだその腕が俺を掴むことはねえ。
ただためらうように俺を押し返して、俺はゆっくりとネサラを抱く腕から力を緩める羽目になっちまった。
「さすがに、もう泣かなくなったな?」
一番最初に舌を入れた時のことを指してからかうと、とたんにネサラの目がきつくなる。
「なんのことかわからないな」
「睨むなよ。余計にそそられるだろうが」
鼻先に口づけて言うと、薄い手がまたべちっと俺の唇を塞ぐ。いつまでもそれで逃げられると思うなよ?
「!」
案の定、べろりと舐めると飛び上がって手を外し、さも汚いと言わんばかりに懐の手巾を探る有様だ。
ったく、いちいち反応が面白いやつだ。
俺が本気で押し倒したら、まだまだこんなもんじゃねえぞ。いざ身体中をまさぐって、舐めて、そうした時はまた泣き出すんじゃねえか?
「なにがおかしい?」
「ん? 相変わらず潔癖だと思っただけだ」
「洗ってもない手のひらを舐められて平気な方がおかしいだろ!」
「じゃあ洗ったあとならいいのか? 俺はおめえが何日風呂に入ってなくても身体中どこでも舐められるぜ?」
「そ…ッ、そういうことを口にするな!」
ウルキに聞かれるからか、それともウルキがいなきゃいいのか。それはわからねえが、赤くなったネサラから感じる甘い匂いには確かに欲情も含まれてる。
いくらでも教えてやるから、言われた通りに想像すりゃいい。俺に抱かれるってことじゃねえよ。誰かと躰を合わせるって意味をな。
鴉王としての生活は過酷なもんだったろうが、心はまだでも、身体はこうやって大人になってんだよ。いつかその時が来るんだ。
ベオクの奴隷にされた女は酷い扱いを受けたらしい。奴隷の中には獣牙族も鳥翼族もいた。こいつはそれを知ってるんだろうよ。
だから恐らく、男だったからってだけでそういう意味では無事だった自分に罪悪感を持ってやがるんだろう。
けどよ、わかってねえな。心はちっとも無事じゃねえ。
それが怖かったり、汚かったり……そんなことだけじゃねえってのを、俺はこいつに教えてえんだ。
いざこいつが発情期を迎えた時が心配だってのもある。言っとくが、これはこいつに手を出す俺の言い訳じゃねえぞ。
「これから先……鷹と恋に落ちる鴉も出てくるだろう」
「おう。いいことじゃねえかよ」
しばらくして息を整えたネサラが呟くように言った。
「でも、きっと泣くのは鴉だけなんだろうな」
「あ?」
「鴉にとってそういう仲になる相手は伴侶だ。でも、鷹と鴉でこんなことの意味が違うならどうしようもない」
待て。待て待て待て!
「だから、なんで俺たちが遊びだって決め付けるんだ!?」
「そういう意味じゃない。俺たちにとっては子育ては主に夫婦がするものだ。でも、もし鴉の女が子を宿してもあんたたちは父親としての義務を果たすつもりはないんだろう?」
「ちゃんとみんなで育てるって言ってるだろうが! あのな、ネサラ。もう一回言うが、遊びでこんなことするヤツばっかじゃねえんだぞ? ちゃんと身持ちの固い鷹だって多いんだからな!?」
「俺たちだって生まれた子はみんなで可愛がる。でも、その前にやっぱり両親あってこそだ。父親としての立ち位置が違いすぎるって言ってるんだろ。……第一、遊び人の鷹に本気になる鴉がいたらどうするんだ?」
「そ…それは、おまえらでも鴉によく言い聞かせてくれ。もちろん、俺も遊びでウブな相手に手を出すなって言っておくけどよ。色恋沙汰ってのはなあ、どっちか一方だけに責任があるわけじゃねえだろ!?」
そう言うと、ネサラは「そうだな」と氷のような声で言って俺から離れた。さっきまでの色っぽさはどこへやらだ。
乱れてもねえ服を正して、さも無駄な時間を過したと言わんばかりに立ち上がる。
「とにかく、王ならまず自分が父親の義務を果たして来い」
「おい、ネサラ…!」
「待ち合わせは明日の朝一番だ。本当はすぐにでも発ちたかったが、残った書類の量を考えたら仕方がない。わかったな」
取り付く島もねえな。
早口でそうまくし立てると、ネサラはぷいと視線を逸らしてその翼で飛び立った。本気で逃げやがったな。とっさに捕まえようとした俺の腕が間に合わねえような素早さだった。
やっとおとなしく腕におさまったかと思ったらあれだ。
意味がわからん!
あげく、深いため息をついてずるずるとささくれもそのままの低い壁にもたれて座り込んだ頭上から、盛大な馬鹿笑いまで聞こえてきやがった。
「……聞こえてるぞ、ヤナフ! ウルキもいるのか? 降りて来い」
ったく、こっちはこっちで覗き趣味かよ!
舌打ちして怒鳴ると、鋭い風切りの音がして小柄な人影がそばに降り立つ。もちろんヤナフだ。遅れてウルキも遠慮がちに降りてきた。
「おまえら、ネサラに見つかってねえだろうな?」
「そんなドジ踏むかよ! もっとも、それを警戒したからあいつも抵抗してたんだろうけどよ」
「ティバーン……了承も得ずにあんな真似をするのは良くない」
「いいんだよ。本気で嫌だったら抵抗するだろうが」
「抵抗もなにも、てめえの腕力で強引に来られたら太刀打ちできねえんじゃねえのかよ。それこそ化身でもしねえとさ」
ああ、はいはい。どうせ俺が悪いんだよ。
……俺もネサラを前にすると自分で抑えが利かねえ自覚はあるんだ。ウルキはもちろん、ヤナフも、俺を睨む視線は口調ほど優しくはねえ。
「まあ、あいつも腕っ節は弱くねえけどな。あいつの心配はもっともじゃねえ?」
「これからの課題になると思う。……鴉と鷹の互いにとっても」
いっしょにいたい間いっしょにいて、嫌になりゃ離れたらいい。
もちろん、片方だけじゃなくて互いにだ。
だが、あいつが心配するみてえに俺たち鷹の中には確かに特定の相手とだけ関係を持つわけじゃねえ連中はいる。
はっきり言って、俺もその一人だった。
それはわかってるんだ。だが……。
「おい、どこ行くよ?」
「親父の務めを果たして来いって言われたんだよ。つっても、自分の子だってはっきりわかるガキはまだいねえんだけどな」
「ははは! そりゃそうだ。俺らもそうだしなあ!? いいんじゃねえの? この際、抱いた女で子がいるヤツ全員回ってこいよ! がんばりゃ朝までにゃ終わるだろ! 出すモンがなくなりゃ、鴉王を押し倒す気力だってなくなるぜ! なあ、ウルキ?」
「………同感だ」
おいおい、なにを含めてんだ。
つくづくこいつはおっさんだな! 腹を抱えて笑うヤナフを小突いて立ち上がると、俺は静かに同意するウルキを睨んで羽ばたいた。
父親の義務ねえ……。関係を持った女で今も一人なのはフェニキスに残した女戦士だけだ。他の女にはとりあえず夫と呼んで差し支えのねえ相手がいるからな。
一人の女とべったり付き合うなんてことはしたことがねえし、相手の女もそうなんだからしょうがねえだろ。
気楽にやりたい時にやって、ふざけて、しゃべって、ガキが生まれたらいっしょに喜んで……。わかりやすく言やあそんな関係だ。
もちろんそれが不誠実だと言われても、俺には言い返すことはできねえさ。だが、女に対して情がないわけでも、もちろんガキに対して情がないわけでもねえ。
ただ、俺が関係を持った女に対して抱いていた感情は、ネサラに対して覚えた感情とはまったく別のものなんだよな。
それがなにかなんてわかるかよ。それこそ言葉にするのは無粋ってもんじゃねえのか!?
「おやまあ」
「……よう」
「情けない顔をした王もいたもんだねえ。あたしゃ、そんなしょぼくれた男に用はないんだけど?」
それでも言われた以上、とりあえずここに来る辺りは俺も正直だよな。鷹の多い集落の中でも真ん中よりの家だ。なにかあったらどっち側でも即対応に回れる位置だな。
思った通り、俺がバツの悪い思いで尋ねて行った女、戦士のスウは、戸口に立っていた俺を見つけたとたん目を丸くして笑いやがった。
「キャスカはまだ帰ってねえのか?」
「あの子なら鴉の先生んとこで字を教わってるよ。本を読みたいんだってさ。まあいいからお上がり」
こざっぱりとした家の中は、フェニキスのころと同じだ。無駄なものはなにもねえ。いや、ガキがいる分、ガキのためのものは増えたか。
考えてみりゃ、こうして会ったのはあの戦争の時以来だ。
こいつはあのフェニキスで深手を負って死に掛けたんだが、元気になってよかったぜ。
そう思いながら中に入ると、スウが甘い声で鼻歌を歌いながらお茶をいれる。こうしていつも俺が座る前に淹れはじめるスパイスの効いた濃い茶は、初めて関係を持った時からの習慣だった。
性格は鷹の女の典型だ。鷹の女の中でも長身で、腕っ節も度胸も良くて、そのくせ声だけは甘い。そんなところが気に入って、口説いて関係を持ったんだったな。
今でもこうしてくびれた腰やきっちり肉のついた形の良い尻を見ると掴みてえし、触りたくなる。それも男としちゃまあ当然の反応だろうが。
「それで、どうしたんだい? 甘えに来たなら蹴り出すよ?」
「じゃあ蹴り出してくれ」
とりあえず、虚勢を張る気力もねえ。深いため息をついて目の前に置かれたでかいカップを握ると、俺は熱い茶をちびりと飲み込んだ。
「あらあら、ずいぶん素直になっちまって。ケンカしたって?」
「ネサラのことなら、ケンカにもなりゃしねえよ」
「そうだろうねえ。ケンカもできないから、しょぼくれてんだろ?」
その通りだ。
俺が大きく頷くと、スウは朗らかに笑ってずかずかと横に来てぐいと俺の頭を引き寄せ、うっかりすると窒息しそうに豊かな胸に俺の顔を埋めた。
身体は鍛えられた分、筋肉質だ。だけど胸は柔らかい。果てたあとに汗ばんだこの胸の谷間に顔を埋めてまどろむのが、女を知ったばかりのころの俺の楽しみでもあった。
考えてみりゃ、一番付き合いの長い女がこのスウなんだよなあ。
長すぎる付き合いはけじめを失くすって言ったのは、鴉の血を引く兄貴分の戦士だったか。確かにそうかも知れねえな。
けど俺とスウは互いに所帯を持とうと思ったことは一度もなかった。縛られるのが嫌だ。それもある。
それ以上に、結局はお互いに自分一人で寝る寝台の気楽さが大事だったからだろうな。
「王になっても甘ったれだね」
「うるせえ。悩みが増えたんだ」
「言っとくけど、泊めないよ?」
「あ?」
べつにそんなつもりはなかったけどよ、もしかして新しい男ができたなら悪かったと思って慌てて顔をあげたら、スウは幸せそうに笑って言いやがった。
「キャスカは甘えん坊でね。まだまだあたしといっしょに寝たいんだよ。それなのにあんたがいたらあの子が可哀想だろ?」
「ああ、そういうことか……」
「そうそう。あたしにとって一番の宝物はあの子さ。当たり前じゃないか」
そりゃそうだ。母親なんだから。
……一人の寝台の気楽さを捨てられねえうちはガキなんだな。俺が一番ガキだってことだ。
なんだか、ネサラの言うことを真に受けてふらふらと来ちまったのが恥ずかしくなるぜ。
不揃いだがばさばさと長い睫毛に囲まれたでかい目が楽しそうに細くなる。笑って俺の鼻に音を立てて口づけると、スウは俺のカップにどぼどぼと蒸留酒をぶち込みながら言った。
「でも、愚痴なら聞いてやるよ。あんたのことだ。他には言う先もないだろうし。レッタはあんたを待ってるけど、会いに行くつもりはないんだろ?」
「……ああ」
レッタも鷹の女だ。だが、スウとは違う。
一途な性格の女だから、今は行けねえ。……俺は、あいつの亭主にはなれねえからな。
「そうしておやり。あんたはね、女には強すぎるんだよ。子を産むならあんたの種ほど欲しい種もそうないけど……いっしょに飛べないんだからさ」
「スウ、俺は」
「わかってる。あんたは決していい加減な男じゃないよ。でも……同じ女だからね。わかるのさ。レッタのような女じゃ、無理だ。これ以上は深入りになる」
最後には真剣な目になったスウに、俺はなにも言えなかった。
そうか。……無理か。
それから、ひやりと冷たいものが心に落ちた。
なんてこった。抱いた女の顔も、声も、名前も覚えてる。
だが、言われるまで思い出さなかった。
それは俺が女を道具のように使っちまってたってことじゃねえのか?
「いや、やっぱりいい加減だった。すまん」
「なんだい、いきなり。若いんだから身体が先に走るのはしょうがないだろ? あたしも…いいや、あたしたちも、それはちゃんとわかって受け入れてるんだよ。だからそこはあんたが気にすることじゃない。あたしだってそんな面倒臭い付き合いはごめんだからね」
そう言って離れたスウの身体を追わずに、俺は飲み干したカップを置いて立ち上がった。
ガキの顔は見られなかったが、スウが元気なことがわかった。充分だ。
「またな」
「またね」
勝手にやってきて、勝手に帰る俺を笑顔で見送ってくれるスウに礼を言うのも今さらだ。だからいつもの通りに出て行くと、俺はにこにこと笑顔を向けてくる鷹の民に応えて飛んだ。
この時間は男も女も畑仕事か狩り、家の仕事のうち得意なことをやってる。今までと違うのはガキどもが勉強する時間になったことか。
鷹と鴉の年寄りが和やかに薪を運ぶ姿を見ながら、俺は王宮に戻った。もちろん、仕事をするつもりでだぜ。俺の顔を見るとすぐに先に戻っていたウルキが書類を出す。
「ラフィエルはニケのところに戻ったのか? ネサラは?」
「ラフィエル王子はガリアから狼女王宛てに届いた書状があり…それを届けに行きました。鴉王は……泣いています」
「なんだと!?」
「嘘です」
ついたばかりの執務机から音を立てて立ち上がった俺に、ウルキはしれっと言ってまだ改良中の目の荒い紙を数枚手渡してきた。
「このぐらいで泣くと言われて…慌てるような相手に、手を出したのか?」
「おまえなあ、どっちの味方だよ?」
「けんかならば両成敗する」
これ以上突っ込むと、物凄く面白くねえ話になりそうだ。
だからそこで不毛な会話を打ち切ると、俺は手渡された紙をめくって見た。
「なんだ、こりゃ」
「鷹の子から王宛に書かれた手紙です。こちらは…鴉の子ですね」
「ガキが字を書けるようになっただけでもすげえが、どっちがどっちの手紙か、言われなくてもわかるな」
絵も入った落書きのように自由奔放な手紙と、正反対の公式文書のような堅苦しいきちんとした手紙だ。ははは、どっちも可愛いぜ。
俺の言葉に頷いて口元を柔らかくしたウルキの手から暖かい茶を受け取りながら、俺はしばらく雛どもからの手紙に目を通した。
ようやく稼動させられた雛のための学校が機能しはじめてる。それがよくわかる内容だ。
鷹の方は野菜が多いから給食より弁当にしてくれだとか、もっと野外活動がしたいとか、書き取り用の石板に絵が収まりきらねえからもっとでかいのが欲しいとか、そんな内容だ。鴉の方は…手厳しいな。年齢別に授業を分けないで欲しい。計算の時間に教えるばかりで新しいことが覚えられないとか、野外実習の時は薬草だけじゃなくて食える山菜も採れるように教えて欲しいとか、あとはたまにはネサラに授業を見て欲しいだってよ。
これから、どうなっていくんだろうな。この国も、よその国も……。
とりあえずは、こいつらの明日を守るためにも目の前の問題を片付けなきゃならねえ。俺の個人的な事情は後回しだ。
鷹の雛が書いてくれたいかにも強そうな俺の似顔絵に暖かい気持ちになりながら、俺はしばらくの間ガキどもの手紙を丁寧に読み返した。
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